毎日の出会いは一期一会

毎日出会うすべてのものたちから、記憶に残したいものを少しだけ

なぜ?と思うこと

chocomikan (id:chocotarou)さんが書かれていた記事にinspireされ、書きたくなったことがあります。

swallowlesmi.hatenablog.com

 

昨年秋にイタリア北部に数ヶ月滞在しましたが、イタリアは、あちこちの町の広場にメルカートという市が立ちます。平日は毎日、というところもあれば、土曜日だけ、というところもあり、メルカートはそこに住む人たちにとって欠かせない食糧や日用品の供給場所で、野菜とフルーツは野菜とフルーツで、雑貨は雑貨で何軒も固まって出店しています。午前中の石畳の広場はあっという間にお店で埋め尽くされ、そしてお昼過ぎになると店は畳まれて、元の広場に戻ります。

そこに通っているうちに、自分のお気に入りのお店ができて、いつもそこで買うようになります。「今日はこれが美味しいよ!」とか、「このトマトは生で、こっちは火を入れて」など、おしゃべりしながら欲しい量だけ紙袋へ入れてはかりで計ったものを買うのです。「もうちょっと足して」とか、「ちょっと多いから減らして」などと融通が効きます。

顔を見ながら、話をしながら、必要量だけ買う。

そして買った商品は、肩にかけているエコバッグの入り口を広げると、中に入れてくれます。「ありがとう」「またねー」と言いながら。

町のあちこちにあるスーパーマーケットでも、野菜は仕入れた状態の箱のまま並べられ、野菜のところには数字が書かれていて、野菜売り場においてあるはかりに乗せて数字を入力するとグラム数と値段が書かれたシールが出てきます。それを野菜を入れた袋に貼ってレジで支払うのです。

 

日本に戻ってきて感じたのは、なぜ全てが袋にはいっているんだろう、ということでした。少しだけ欲しい人もいるし、大きいのが欲しい人も、小さいのが欲しい人もいるのに・・・。日本ではスーパーだけでなく、八百屋さんでも同じように袋詰めです。 

この袋詰め、全部ではないかもしれませんが、障害のある人が卸売市場の中で詰めているということをある時知りました。

彼らの1日の賃金は私たちが働く最低賃金1時間よりも安く、野菜が傷まないよう薄暗く寒い中で、決められたグラム数で詰めているのです。

じゃがいもや玉ねぎなどはピッタリとした重さにならないため、何度も組み合わせて苦労しているそうです。

そんな苦労に思いを馳せながら袋詰めされた野菜を買い、そして調理したあとのたくさんのプラゴミ。

わざわざ手間をかけ、ゴミを出すのがよくないとわかっていてもこのようなやり方をするのはどうしてなんだろう、と時々考えます。

 

日本の暮らしは大好きですが、私たちの暮らしはもっと変わることができるんじゃないか、それはある意味、便利なものがなかった昔の暮らしに戻るように見えますが、最近はエコバッグも浸透し、もっと色々無駄を省けるんじゃないかと時々思うのです。

 

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ブログアイコンが地味な色なので、気持ちが明るくなるよう変えてみました。もっと良い写真が取れたらまた取り替えたいと思います。